正月に帰省した際、旧友たちとの新年会で、話題はそれぞれの「趣味」のことになりました。
友人は、酒、競馬、推し活……と、それぞれ情熱を注いでいる対象を語り、人生を謳歌しているように見えます。対して、自分には胸を張って語れるような趣味がありません。
「好きなことを仕事にしているんだから、仕事が趣味みたいなもんでしょ?」と友人の一人が言ってくれました。確かに、そうかもしれない。けれど、心のどこかで「それはちょっと違う」という違和感が拭えません。
趣味と仕事の境界線
仕事が好きという感覚は、プラモデルを組み立てたり、山登りで頂上を征服したときの高揚感と同じでしょうか?
趣味とは本来、実利や損得を抜きにして、純粋に己の快楽を追求するために行うものです。一方、仕事にはどうしても「対価を得る」という側面がつきまといます。たしかに、稼ぐことに快楽を覚える人もいるでしょう。しかし、仕事そのものから純粋な「遊び」としての悦びを抽出し続けるのは、至難の業です。
そんなことを考えているうちに、私は「趣味」という言葉を安易に使えなくなっている自分に気づきました。そのきっかけは、中高生時代にお世話になった、日本史のM先生の言葉です。
M先生の「趣味」
ある日の授業中、生徒から趣味を尋ねられたM先生は、おもむろにこう切り出しました。
「今、趣味と言えるほどのものはないが、好きなことならある」
先生は若い頃から社交ダンスに打ち込み、何万円もするダンスシューズを大切に持っていることを、少し照れくさそうな笑顔で語ってくれました。
M先生は独特の語り方をする人で、決して声を荒らげることのない温厚な方でした。小柄で、失礼ながら「猪」を彷彿とさせる風貌は、お世辞にも美男子とは言えませんでした。
そんな先生の口から「社交ダンス」という言葉が出たものだから、教室にはドッと笑い声が起きました。私も、つい一緒になって笑ってしまいました。
けれど、笑い声の中で改めて先生を眺めてみると、そこには不思議な説得力がありました。 先生はいつも、自分の身体にぴたりと合ったスーツを凛と着こなし、背筋を伸ばして堂々と歩いていました。決して男前ではないはずなのに、そこには確固たるこだわりを持つ「ダンディな男」としての格好良さが漂っていました。
真面目で努力家の先生のことです。ダンスの腕前も相当なものだったに違いありません。それでも先生は、しばらく遠ざかっているから今は趣味ではない、と一線を引かれました。「趣味」と「好きなこと」を厳格に区別し、安易な言葉選びをしない。そのストイックな姿勢に、私は内心深い感銘を受けました。
以来、私の中で「ほんの数回かじった程度で『趣味は〇〇です』と公言するのは気恥ずかしい」という感覚が根付いたのです。
喪失と再会
では、改めて今の自分が「趣味」にしたいことは何だろう、と考えました。
子どもの頃に熱中したコンピュータゲームへの熱量は、随分減りました。多くのゲームは、過去に見たことがあるパターン。また、長時間のプレイに耐えられない目の疲れ。今でもゲームは好きですが、かつてのような情熱を燃やすのは難しくなりました。
手詰まりを感じていた私に、ある友人が問いかけてくれました。
「最近、本は読んでる?」
その言葉に、ハッとしました。あんなに好きだった読書を、いつの間にか手放していたことに気づかされたからです。
中高生の頃は、毎週図書室で4〜5冊借りていました。20代までは、どこへ行くにも本を持ち歩いていました。それなのに、なぜ読まなくなったのか。 通勤時間が消えたこと。スマートフォンの手軽なコンテンツに、貴重な時間を切り売りしてしまっていたこと。電子書籍の味気なさに、どこか馴染めずにいたこと。
理由を並べながら、私は自分が「くだらない時間の使い方」をしていたことに気づき、猛烈に反省しました。
2026年、ページをめくる手触りから

早速、友人が勧めてくれたペーパーバックをAmazonで注文しました。
今の私が「趣味は読書です」と口にするのは、まだ早い。けれど、スマートフォンを置いて紙のページをめくる時間は、仕事でも快楽でもない、自分を取り戻すための大切な儀式になる予感がしています。
2026年。今年は、去年とは違う手触りの1年にしたいと思います。

